76. 暗い 麦畑に

あのジャズのあとも、私たぶん音楽を聴いていない。
あなたが、私の前から消えてしまったついこの間まで。音楽を聞かなかった。

あなたの部屋で、何気なく掛けたCDでした。
そして、そのときから、私のからだは、「音楽」そのものです。
チェロ。バッハの無伴奏チェロのあの出だしのメロディ。
テンポの速いマイスキーの演奏。

夜の闇が粘り着くように私の周りをめぐって私の身体に入ってきた。
そしたらそこは、ロル・V・ステーンが身を潜めている麦畑なんです。

暗い麦畑から、遠くに、明るいホテルの窓がみえる。
窓に見える影はS・タラの男じゃなく、あなた、と思いました。

そして、見えないけれど、部屋のどこかに多絵子さんがいる。

あなたの部屋で目にとまったCDを掛けて。そのとき、それからそのまま。
ずっと、低くいつも鳴っているんです。
聞こえないくらい低く、今も。
そして私はあの麦畑に身を隠してホテルの窓を見ている。今も。

あなたの部屋で、あのとき。
音が私の中で渦を巻いて、大きなうねりになって、落ちていった、そのとき、
闇にあなたがすい込まれていく音を、聞いてしまいました。

そうすると、あのホテルの窓の影はやはり、S・タラの男 とタチアナ?

あなた、その夜(夜更けだった、んですね)海に消えた。
ほんとうに、そうなの? 
「違う!」ってわたし、言い続けていたけれど。
その夜、フェリーから海に滑り込んでいった。

「飛び込んだ」って。
皆で納得させようとしても、私は、信じなかった。けれど。
すい込まれていく音、聞いてしまった。

辰井さん、適当に優しくて、てきとうに気軽で気持ちのいい人でした。
一緒にいると楽しかったし。わたし、いつも笑ってばかりいた。

毎週一度くらい、お茶飲んだり、喫茶店でおしゃべりしたり、
しゃべらないでいたり、夕飯御馳走になったり。
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by chigsas | 2010-02-19 20:05