68. それまで 私 なにも

芦田先生は、何も教えてくれなかった。
いつも、黙って教室の中をゆっくり歩いて、ときどき、
誰かの後ろにそーっと止まる。
「ウーン。そう見えるんだ。そうか」
と一人でうなづいたり、
「この花、はなびら、もっと薄くて柔らかいんじゃない?」

でも、何も言われなくても、先生が後ろに立ってくださると、
デッサンの狂っているところにハッと気がついた、
そんなことが何回もありました。

お店の方は、慣れてくると、初めほど疲れなくなりました。
いつも来る御常連は顔も覚えましたが、
お客様は全然違う世界の、なんの関わりもない人でした。

あの頃が、わたしのなかで、一番あなたが淡くなっていた時期だったんだ
と今は、わかります。周りを全部変えたら、
私の中からあなた、追い出すことできるかも知れない、
と、思っていたような気もします。

絵を描くことも面白かったし、お店で、コーヒーを運んだり、
テーブル拭いたりすることも、
そこで私が何かをしている、という実感が気持ちよかったから。
生まれてからそれまで私、本当は何もしていなかった。

それまで私、いつも半分眠っていたんです。
ときどきは、目が覚めたことあった、かもしれないけれど。

お店に来る人が、自分とはなんの関わりもない人、と気がついたとき、
というのかしら、いや、知らないうちにそう感じていたことに気がついた時、
身体から、余計なものが落ちていくような不思議な感じでした。
身体から薄い皮が剥がれて、空気が直接皮膚にさわるみたいな。
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by chigsas | 2010-01-10 15:02