75. サックスの 音が ぶつかると

「おいしい。ですね」
辰井さん、やっとニコッとしたみたい、でした。

あのとき私、自分が会社の中でどんな立場にいるか、
全然気がついていなかったらしい。
辰井さんも、私に気を使ってはっきり言わなかったし。

「あのとき、おれ、だけじゃないや。
社内にいた皆一瞬手、止めて、下向いちゃった」
「そんなに社長の声、大きかったかなあ」

そのまま話が途切れたけれど、お店が混んでいたせいか、
それとも隣り合って座っているせいか、
山屋さんのときみたいに気詰まりではなかった。

忘れたけれど、いろいろ美味しく食べて、
それから、ジャズ喫茶に行ったのでした。

サックスの音がからだにぶつかってくる。
そうすると、からだから、何かが吹き出して
わたしは自由になっていく。あそこで鳴っていたのは、
兄さんたちが聞いていたのとは違うジャズだった。

それまで、「音楽」を聞いたこと無かったのかもしれない。
多絵子さんが歌ったあの歌は別だけれど。

あのジャズのあとも、私たぶん音楽を聴いていなかった。
あなたが、私の前から消えてしまった、ついこの間まで。
音楽が聞こえなかった。
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by chigsas | 2010-02-06 14:49