<   2009年 07月 ( 13 )   > この月の画像一覧

その日の見学は田絵子さんと二人だけでした。

数が少ないので、学年全体の女子がまとまって受ける体育の授業。
女生徒に甘い体育教師は、ずる休みに近い見学も無条件に許してくれる。
だから寒い時期は、体育館の陽の当たる壁際には
見学の生徒が何人も並んでましたね。

もっとも熱血先生の「しんぞうちゃん」なんて
男子には厳しかったらしいから、
体育館の景色も、男子の授業では全然ちがってたかしら?

私、一年の一学期に風邪の後軽い腎臓炎にかかって、
お医者様に体育の授業見学するように言われたのをいいことに、
そのあともずっと半分くらいは見学。

田絵子さんは、二学期の初めくらいから見学するようになっていた。

急に、体育館が広い空間になりました。
みんながバレーボールしている動きも、先生のかけ声も遠のいて、
私と田絵子さんだけが、小さな二つの点になって、
宇宙の中心になって・・・。

そのとき、私の心のスクリーンには、
田絵子さんの歌声が広がっていった美術室で
机の上に目を落としていたあなたの横顔が、
大写しになっていました。

「辻さん、死にたくない。って言ってる、んですって」

卒業して行き来のなくなった美代ちゃんにばったり出会った。
どこだったか思い出せないけれど、神保町あたり。
近くのケーキ屋さんの喫茶室に腰おろして、
美代ちゃんの口から最初にでた言葉でした。

三年になると、田絵子さんはほとんど見かけなくなっていました。
a0134863_11344541.gif

by chigsas | 2009-07-30 11:37
体の中からあふれてくるものを、どう現していいか分からない、それが
うっすらと涙になって流れてくるのをいっしょうけんめいこらえている。
田絵子さんの絵の女の子と自分が重なったようでした。

家の外ではいつもお互いに知らん顔の小兄さんと、
その日はいっしょに帰りました。
家のそばまで、ほとんどしゃべらないでいた兄さんが、ぽつんと言った言葉。

「田絵子さん、良い奥さんになるために、N高選んだんだって。
一年生の時、自己紹介で言ったけど・・・」
「・・・ほんとのことしか言えない人なんだなぁ・・・。 彼女。」
門の外で立ち止まってしまった私を残して兄さん、家に入っていきました。

「お医者様は、シハンビョウっていうんだけれど」
無造作にスカートの裾めくって、膝小僧見せてくれた、田絵子さん。
小さな紫色の斑点がいくつも、膝の周りに見えました。
余りじっと見てはいけないと、すぐ目をそらした私に、
「でも、それは、紫の斑点ができる症状のことで、そう言う病気は
無いかもしれないし。原因も治療法も分からないらしいの。」

体育館の壁に二人で並んで寄りかかっていました。
「シハンビョウ」という言葉の響きから「死」が連想されて
体が固まってしまった。
余計なこと聞いたと後悔して落ち込んだ私とは反対に
田絵子さんは、さらっと何気ない声。

しばらく黙った後、やっと「紫斑病」という文字が目に浮かんできました。

その日の見学は田絵子さんと二人だけでした。
a0134863_683752.gif

by chigsas | 2009-07-28 06:12
でも田絵子さんは、どちらかと言えばひっそりとしている、
目立たない女の子と私は、それまで思ってました。
見かけだって美人というわけではない・・・。

「あざやかーな みどりよー あーかるーい みどりよー」
雑然とした美術室に、静かな声が、ゆっくり広がっていった時、
ぼーっとしていた私、首回して、声のほうを見ました。

みんな同じだったのか、部屋が急に静かになりました。
立って歌っていたの、田絵子さんでした。

展覧会の反省や感想など、一通りの話がすんで、
ちょっと空気がゆるんできた頃、
「だれか、歌うたいませんか? まず、くぼた君?」
とか進行係の声があって。

いつも文化祭などでもよく出てくる
あなたのクラスの人、シューベルトの冬の旅かなんか歌って、
続いて何人かあの頃はやっていたポップスとか、
映画の歌とか、よく覚えてないけれど、そんな後でしたね。

少しざらっとしているのに、やわらかに伸びていく声。
伏し目がちに、でも、まっすぐを見つめている目、
彼女の描く女の子の目と同じでした。

繊細で重い何かが彼女の中から流れて、部屋にあふれ、
そのまま窓から空へと広がっていくようでした。

歌声がやんで、一瞬静かになって拍手しながら、
向こうの隅で机に目を落としていたあなたをそっと見て、
わたしも俯いてしまいました。

誰とも口ききたくない帰り道の心の重さ、
まだ明るい春の夕方の寒さ・・・。

あれは、「青春」という言葉の明るさと寒さだった。
a0134863_1418432.gif

by chigsas | 2009-07-26 14:25
田絵子さんが、一人の女の子として強烈に私の心に刻まれたのは、
あの春休みのあと。
新入生をクラブに誘う毎年恒例の美術部展の最終日でした。
私と反対に、田絵子さんはクラブに入っているのに
美術の授業取っていなかったから、作品見るの初めて。
で、まず、その作品の前で息をのみました。

3点、どれもわたしたちと同じくらいの年頃の女の子を、
ていねいに鉛筆だけでモノクロで描いているんだけれど、
どう表現したらいいか、その時は分からなくて、
今もぴったりの言葉みつかりません。

イラスト風のとか、油やアクリル絵の具のよくある抽象画、
でなければ、授業で一生懸命描いた上手なデッサンなど飾られた中で、
その3枚がかかっている壁だけ空気が違ってました。
あなたも、きっとそう感じていたでしょう。

展示の片付けが終わって、簡単なお茶の会になって。
美術部ではなかったけれど兄さんにくっついて、会費払って
特別に参加させてもらったんでしたが、驚いたこと。
あなたも、小兄さんも、他の男の子たちもみんな、
田絵子さんに「辻さん」て、名字で呼びかけていたの!

N高校では女生徒は全体の1割くらいしかいなかった。だから、
同じ学年ならほとんど名前も顔も知っていました。
それに自由な校風のためか個性的な子も多いからスター的な人、
何人もいましたね。

陸上の畑谷さんなんて脚が長くショートパンツ姿かっこよくて、
わざわざ放課後の練習を見に行く人もいたり。
あなたの学年では、パーマかけて、フレアスカートにヒールの靴で
学校に来る小谷さんも図書館ですれ違うと、
小さなつむじ風を連れて歩いてるみたいな感じでした。
a0134863_114398.gif

by chigsas | 2009-07-24 11:47
あのくらいの年頃の女の子の嬌声や笑いに含まれる何か、
おとなには我慢ができないこと、今は分かりますが、
あの時は二人とも、只苦しくて笑いころげていただけ。

「あいつ、芸大受けるからと言って両親説得したんだって」
これも、小兄さんが言ってたこと。
「公立なのに美術部が良いから予備校に行かなくてもいいと。
それで、おやじさんの後輩の家に下宿できることになったんだって。」
親が煙たい年頃の兄は少しうらやましそうでした。
お父様はちゃんとしたサラリーマンにしたかったけれど、
「長男じゃないんだから好きにさせて・・・」
とお母様が応援したって聞いて、うちの母さんとは大違いだと、
私もすごく羨ましかったんです。

我が家から線路を越えて公園を抜けた、静かな古い住宅街にある、
昔風の家。古い造りなのでちょっと暗いけれど、
普通より多分広めの六畳、玄関のすぐ脇の部屋でしたね。

「全然美術部の男の子らしくない部屋だったねー」
笑いが収まって、美代ちゃんがいったひとことに、私もうなずきました。

公園の一分咲きの桜、大笑いした後のあの寂しいふたりの気分。
春休みっていう言葉といっしょに浮かんでくる景色は
いつもあの桜と、あなたの部屋です。

あなたの部屋が余りに整然と片付いていること、兄二人の部屋の
ごちゃごちゃ加減見なれていた私には、驚きでした。
兄二人の部屋っていっても、大学生だった大兄さんは夜帰って寝るだけ。
そのうえ、友達の所に泊まることも多かったから、
小兄さんの物が占拠していて、油絵の具の匂いがする乱雑な部屋。
古くて広めの洋間は居心地がいいらしく、
美術部の男の子たちが集まってくる部屋でした。

「田絵子さん」て、そこで時どき耳にする名前だったんです。
a0134863_204825.gif

by chigsas | 2009-07-22 02:02
小学生の頃からお母様に連れられて、教会に通っていたんでしたね、あなた。
あなたにとってもしかしたら、イエスが誰より身近な人だったかもしれない。
あなたの本棚の一番隅っこに、手垢で汚れてページもめくれてしまった
新約聖書が、それも2冊もあるの、ずっと気づいていました。

私、怖くて、手を触れることできなかったけれど。
田絵子さんに対する気持ちが他の男の子たちと全然違っていたように、
あなたは他のキリスト教の人とは違っていた。
と言うより洗礼受けなかったことから想像するとあなた、
キリスト教とは言われたくないと思ってた? 
一度も聞いたこともなかったけれど。

「真夫君高校に通うようになって家を離れたから、おふくろさんからも教会からも解放されたんだって」
って昔、小兄さんが言ったことがあります。

あなたの下宿に始めていったとき、話しながら小さなボストンバッグを
左足に履いてはジッパーを閉め、脱いで、また履いては脱ぎを繰り返していました。あなた、覚えてなんかいませんよね。
その時も美代ちゃんといっしょでした。

文芸部の作品集の編集当番を二人で引き受けて、表紙のデザイン頼みにあなたの下宿に行ったんだけれど・・・。
大まかに話しすませて、下宿の門を出たとたんに、
二人ともこらえていた笑いが爆発して、たいへんでした。
通りかかったおばさんにぶつかりそうになって、睨まれて。
a0134863_1212931.gif

by chigsas | 2009-07-20 12:13
思い出すのは、K病院から退院した日。

病院へ迎えに来てくれて、電車乗り継いでアパートまで送って、
それから終電の時間まで、ほとんど何もしゃべらないで、
お茶も飲まなかった。
あの日のあなたの優しさと暗さ、思い出しても、目だけでなく、
体じゅう熱くなってしまいます。

アパートの外階段を下りて帰って行く足音、
テーブルにうつぶせになって聞いていました。鉄の階段だから、
音が響くので、そーっと歩いている足どりが見えて、
最後の一段を下りて足音が消えても、
小さくカン、カン、と響く音、聞こえているみたいでした。

そしてあの時、あそこで起こったこと。
というより、私があそこでしてしまったこと、
私よりあなたの方が真っ正面から感じてくれていた、・・・。
この事件は、たった一人、あなたしか知らないこと。
だから、わたしのこれまでの人生から消してしまっても良いのに、
今、それが、私そのものなのです。

私のしたことは、今となっては私自身、どうしても許せることではないのに。
あのころ私は持たなければならない重い荷物をあなたに持ってもらって、
当たり前みたいに、今考えると気楽にしていたのかもしれません。
いや、そうではなくて、あなたが持ってくれているとも思ってなかった。

もし誰か、あなたに重荷をおしつけて気楽にして、
と指摘する人いたら、私の心に宿ってしまった悲しみを
あなたが償ってくれて当然と、言い返したかもしれません。
a0134863_9285243.gif

by chigsas | 2009-07-18 09:38
あなたが兄さんの所に遊びに来るようになったころ、
玄関の前に水を撒くようにって母さんに言われて、バケツ下げた私とあなた、
鉢あわせしたのも、覚えてませんよね。

その時のあなたの下駄を履いた足。
兄さんの所に来る男の子たちの中で、あなたが特別の人になった瞬間だった。
とか、今頃、思い出してしまいました。
下駄の鼻緒を挟んでいた、あなたの足の指、いま思い出しても体の芯がきゅっ
と鳴る、あの感覚が何を意味しているか、
その時の私には、わかっていませんでした。

私の本棚に「ロル・V・ステーンの歓喜」っていう本、表紙が茶色くなってあ
ること、知ってたかしら?
その周りに、並んでいるデュラスの本については、結婚した頃、
「君、変わった作家好きなんだね」って言っただけ。
その時私、慌てて話題を変えたのでした。

もっとも、結婚したと言っても、あなたの事務所のそばにマンション借りて、
そこへ二人の荷物運び込んで引っ越して、名字変えただけ、だったけれど。

ずっとあとになって、「ラマン」が映画で日本でも評判になったとき,
「君の本棚に並んでいる作家だね」って。
多分、あなたにとって「訳の分からない私」はこの部分だけ、
と、そのとき思いました。
ほんとはこれが、あなたに対する私の、いちばん大事なことなのです。

今気づいたことなんですが、あなた、
東町の家で、私の部屋に来たことなかった。
いいえ、結婚するまで、わたしの部屋に来た回数、片手で数えられるくらい。
そうでした。いつも私が、あなたの所に押しかけていって、
言いたいこと気が済むまでしゃべって・・・・ってパターン、でした。
a0134863_2225858.gif

by chigsas | 2009-07-16 22:05
あなたが不愉快なときの、あのムッとふくらんでいく顔、見えるみたい。
「男のくせに、女よりよっぽど土手カボチャ!!」
って言うと、ふーっと感情がひっこんでいって穏やかに軽くなる。
そう言うときのあなた、私は今、とても好きだったんだと気がつきます。

田絵子さんに対するあなたの気持ち、あのころのほかの男の子たちとは
全然違ってたんだって、私が一番分かっているから、どうぞご安心を。でも、
私があなたの気持ち気づいてたなんて、ほんとはいやでしょう、ね、きっと。
私のことはあなたが誰よりも、母さんや父さんより、兄さんたちより、
もしかしたら、私自身より、よく知ってくれていたんだけれど・・・。

私があなたに隠したのはたった一つ。
あなたの中に田絵子さんが生きているの、知らん振りし続けたことだけ。

その晩、田絵子さんとあなたを美術室で見た日の晩、
いつもの通り兄さんたちの部屋にあなたが来ていると、気づいてたけど、
私、とうとう顔のぞかせることもできなかった。
用もないのに話のじゃまして兄さんに追い返されてばかりいたのに。

玄関の戸が閉まって、あなたが遠ざかっていく下駄の音、
美術室のシーンといっしょに、私の中で今も鮮やかです。
まるでさっき見て聞いたばかりみたい。

あなた、その晩はわたしが、挨拶もしなかったことなんて、
全然気がついていなかったでしょう、もちろん。
あなたと田絵子さんが二人だけの日暮れの美術室に駆け込んで、
すぐ出て行ったのが、
「いつも遊びに行く多田武の妹」だったとも、
思ってなかったかもしれない。

いや、もしかしたら、あのとき誰かが部屋に駆け込んで出て行ったことも
気がついていなかった?

そういえばあのころ、学校以外では、あなたいつも、下駄履きでしたね。
a0134863_1958959.gif

by chigsas | 2009-07-14 20:14
もっとも、理解されたら、一番困るのは私だったんだけれど。
その晩、父さんが何気なく漏らした、ずいぶん前に大兄さんがあなたに
「木の実の気持ちわかってやって欲しいみたいなこと言って、私との結婚
をそれとなく催促したらしいけれど、真夫君には伝わらなかったらしい」
って話、いかにも人の良い兄さんらしいと笑ったのですが、
何も知らないって、いいですね。

そして、たぶんあなたは、兄さんが言おうとしていたこと、ちゃんと分かって
たでしょ?。

放課後、美術の教室に手袋忘れたこと気がついて、更衣室に美代ちゃん待たせ
て慌てて取りに駆け込んだら、田絵子さんとあなたがいたのでした。

たしか12月の初めの3時頃だった。もう日は傾き始めていて、ちょっと暗い
感じの部屋で、田絵子さんはイーゼルをたたんで帰り支度していたみたい。
あなたはアグリッパの石膏見ながら、手はあそんでいました。

入り口近くの棚の上から手袋をつかんで飛び出す、数秒の間に私の目がシャッ
ター押して心に刻んだシーン。
音に気づいて私の方をちらっと見た田絵子さんの「さよなら」っていう声を、
背中に聞いて駆けて戻った私の様子すごく変だったんですね。きっと。

「何あったの?」って美代ちゃんに聞かれても、帰りの道も上の空でした。
あの日のこと、一度もあなたに話したことなかった。あなたがいなくなってし
まった今だから言えることです。

田絵子さんとは体操の時間いつもいっしょに見学していたけれど、クラスも違
うから、それまではほとんど話したことなかった。でもN高では、あの頃みん
なが知っている女生徒だった。
有名というのとも全然違う、男子生徒たちの心を静かにつかんでいたという方があたっているかもしれない、ふしぎな存在でした。ね。
a0134863_2135764.gif

by chigsas | 2009-07-11 21:21