4.美術室 12月の午後

もっとも、理解されたら、一番困るのは私だったんだけれど。
その晩、父さんが何気なく漏らした、ずいぶん前に大兄さんがあなたに
「木の実の気持ちわかってやって欲しいみたいなこと言って、私との結婚
をそれとなく催促したらしいけれど、真夫君には伝わらなかったらしい」
って話、いかにも人の良い兄さんらしいと笑ったのですが、
何も知らないって、いいですね。

そして、たぶんあなたは、兄さんが言おうとしていたこと、ちゃんと分かって
たでしょ?。

放課後、美術の教室に手袋忘れたこと気がついて、更衣室に美代ちゃん待たせ
て慌てて取りに駆け込んだら、田絵子さんとあなたがいたのでした。

たしか12月の初めの3時頃だった。もう日は傾き始めていて、ちょっと暗い
感じの部屋で、田絵子さんはイーゼルをたたんで帰り支度していたみたい。
あなたはアグリッパの石膏見ながら、手はあそんでいました。

入り口近くの棚の上から手袋をつかんで飛び出す、数秒の間に私の目がシャッ
ター押して心に刻んだシーン。
音に気づいて私の方をちらっと見た田絵子さんの「さよなら」っていう声を、
背中に聞いて駆けて戻った私の様子すごく変だったんですね。きっと。

「何あったの?」って美代ちゃんに聞かれても、帰りの道も上の空でした。
あの日のこと、一度もあなたに話したことなかった。あなたがいなくなってし
まった今だから言えることです。

田絵子さんとは体操の時間いつもいっしょに見学していたけれど、クラスも違
うから、それまではほとんど話したことなかった。でもN高では、あの頃みん
なが知っている女生徒だった。
有名というのとも全然違う、男子生徒たちの心を静かにつかんでいたという方があたっているかもしれない、ふしぎな存在でした。ね。
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by chigsas | 2009-07-11 21:21