あなたが兄さんの所に遊びに来るようになったころ、
玄関の前に水を撒くようにって母さんに言われて、バケツ下げた私とあなた、
鉢あわせしたのも、覚えてませんよね。

その時のあなたの下駄を履いた足。
兄さんの所に来る男の子たちの中で、あなたが特別の人になった瞬間だった。
とか、今頃、思い出してしまいました。
下駄の鼻緒を挟んでいた、あなたの足の指、いま思い出しても体の芯がきゅっ
と鳴る、あの感覚が何を意味しているか、
その時の私には、わかっていませんでした。

私の本棚に「ロル・V・ステーンの歓喜」っていう本、表紙が茶色くなってあ
ること、知ってたかしら?
その周りに、並んでいるデュラスの本については、結婚した頃、
「君、変わった作家好きなんだね」って言っただけ。
その時私、慌てて話題を変えたのでした。

もっとも、結婚したと言っても、あなたの事務所のそばにマンション借りて、
そこへ二人の荷物運び込んで引っ越して、名字変えただけ、だったけれど。

ずっとあとになって、「ラマン」が映画で日本でも評判になったとき,
「君の本棚に並んでいる作家だね」って。
多分、あなたにとって「訳の分からない私」はこの部分だけ、
と、そのとき思いました。
ほんとはこれが、あなたに対する私の、いちばん大事なことなのです。

今気づいたことなんですが、あなた、
東町の家で、私の部屋に来たことなかった。
いいえ、結婚するまで、わたしの部屋に来た回数、片手で数えられるくらい。
そうでした。いつも私が、あなたの所に押しかけていって、
言いたいこと気が済むまでしゃべって・・・・ってパターン、でした。
6.ロル V ステーンの歓喜_a0134863_2225858.gif

# by chigsas | 2009-07-16 22:05
あなたが不愉快なときの、あのムッとふくらんでいく顔、見えるみたい。
「男のくせに、女よりよっぽど土手カボチャ!!」
って言うと、ふーっと感情がひっこんでいって穏やかに軽くなる。
そう言うときのあなた、私は今、とても好きだったんだと気がつきます。

田絵子さんに対するあなたの気持ち、あのころのほかの男の子たちとは
全然違ってたんだって、私が一番分かっているから、どうぞご安心を。でも、
私があなたの気持ち気づいてたなんて、ほんとはいやでしょう、ね、きっと。
私のことはあなたが誰よりも、母さんや父さんより、兄さんたちより、
もしかしたら、私自身より、よく知ってくれていたんだけれど・・・。

私があなたに隠したのはたった一つ。
あなたの中に田絵子さんが生きているの、知らん振りし続けたことだけ。

その晩、田絵子さんとあなたを美術室で見た日の晩、
いつもの通り兄さんたちの部屋にあなたが来ていると、気づいてたけど、
私、とうとう顔のぞかせることもできなかった。
用もないのに話のじゃまして兄さんに追い返されてばかりいたのに。

玄関の戸が閉まって、あなたが遠ざかっていく下駄の音、
美術室のシーンといっしょに、私の中で今も鮮やかです。
まるでさっき見て聞いたばかりみたい。

あなた、その晩はわたしが、挨拶もしなかったことなんて、
全然気がついていなかったでしょう、もちろん。
あなたと田絵子さんが二人だけの日暮れの美術室に駆け込んで、
すぐ出て行ったのが、
「いつも遊びに行く多田武の妹」だったとも、
思ってなかったかもしれない。

いや、もしかしたら、あのとき誰かが部屋に駆け込んで出て行ったことも
気がついていなかった?

そういえばあのころ、学校以外では、あなたいつも、下駄履きでしたね。
5.下駄の足音_a0134863_1958959.gif

# by chigsas | 2009-07-14 20:14
もっとも、理解されたら、一番困るのは私だったんだけれど。
その晩、父さんが何気なく漏らした、ずいぶん前に大兄さんがあなたに
「木の実の気持ちわかってやって欲しいみたいなこと言って、私との結婚
をそれとなく催促したらしいけれど、真夫君には伝わらなかったらしい」
って話、いかにも人の良い兄さんらしいと笑ったのですが、
何も知らないって、いいですね。

そして、たぶんあなたは、兄さんが言おうとしていたこと、ちゃんと分かって
たでしょ?。

放課後、美術の教室に手袋忘れたこと気がついて、更衣室に美代ちゃん待たせ
て慌てて取りに駆け込んだら、田絵子さんとあなたがいたのでした。

たしか12月の初めの3時頃だった。もう日は傾き始めていて、ちょっと暗い
感じの部屋で、田絵子さんはイーゼルをたたんで帰り支度していたみたい。
あなたはアグリッパの石膏見ながら、手はあそんでいました。

入り口近くの棚の上から手袋をつかんで飛び出す、数秒の間に私の目がシャッ
ター押して心に刻んだシーン。
音に気づいて私の方をちらっと見た田絵子さんの「さよなら」っていう声を、
背中に聞いて駆けて戻った私の様子すごく変だったんですね。きっと。

「何あったの?」って美代ちゃんに聞かれても、帰りの道も上の空でした。
あの日のこと、一度もあなたに話したことなかった。あなたがいなくなってし
まった今だから言えることです。

田絵子さんとは体操の時間いつもいっしょに見学していたけれど、クラスも違
うから、それまではほとんど話したことなかった。でもN高では、あの頃みん
なが知っている女生徒だった。
有名というのとも全然違う、男子生徒たちの心を静かにつかんでいたという方があたっているかもしれない、ふしぎな存在でした。ね。
4.美術室 12月の午後_a0134863_2135764.gif

# by chigsas | 2009-07-11 21:21
わたしたちの結婚、周りでは誰も、唐突とは思わなかった。
大兄さんなんて、
「そーかっ、あいつー、やっと決めてくれたかっ。」
すぐに返ってきた声があまり大きかったので思わず受話器、耳から離して、眺めてしまったほど。むかしの、あの黒い電話機の重さ、思い出します。

単純な兄は、心から嬉しそうでした。
ったく、人の気も知らないで・・・。
でも、小兄さんは、少し沈黙の後、「そう、・・・」
そして「よかったな」小さな声。もしかしたら、なにもかも承知していた。
あなたとは高校3年間同じクラスでクラブも同じだった、。田繪子さんとも同じクラブだった。

気にしていたのは私だけだったかもしれませんね。
小兄さんは、大学も地方を選んでさっさと家を出て、卒業するとその県の県庁なんかに入って。
あの頃、二人目の子どもが生まれるとか言って。あなたとも、ほとんどおつきあい無かったから。
あなたと私の結婚なんてどうでも良かったのかもしれない。

次の日ほんとに久しぶりで、東町の家にも帰って、父さん母さんと夕飯いっしょにしました。
「ん?、もうその話はとっくに消えて、というか、棚上げのままにしておくもの、と思ってたよ。そーか、良かった。うん・・・。」
父さんは晩酌の手をちょっとの間宙にとめてから、私を見ました。
私、ふと、父さんから目をそらせてしまったの、父さんどう感じたかしら。
今となっては聞く術もないけれど。

あの頃急に小さくなっていった父さんの、骨張って、染みの浮き出ていた手。
母さんの反応は何故か、ぜんぜん覚えていない。
手に負えない娘がやっとなんとか落ち着いてくれると、ほっとしていただけですね、きっと。
それまでの15年以上私のしてきたこと全部、彼女の想像の埒外だったから。
父さんが歓んでいるならいいことだと判断するしかない人、だっただから。
でも、どちらにしても、二人ともなんにも理解してなんかいなかった。

もっとも、理解されたら、一番困るのは私だったんだけれど。


3.何も理解してなかった?_a0134863_15493192.gif

# by chigsas | 2009-07-08 15:21
「僕たちの・・・」
「?・・」
「結婚・・・。に・・・」
「?・・」
「ついて・・・。どう思う?」

まるで、床の上にころがっているおもちゃを除けながら歩く、よちよち歩きの子供の足どり、のようにあなたの口からこぼれてきた言葉。私には、あまりに唐突でした。まるで、自分たちのこととは思えなくて、ぽかーんとして。
そのとき私が抱えていた大きな糸玉はなんだったか、今も思い出せません。
そして、あなたが急に違う人になって、いつもより、遠くはなれていくような感じでした。あなたが何を言おうとしているか、頭の隅で、わかりはじめるまで・・・。
相当の時間、二人とも黙ったままでしたね。
知らないうちにあなたが頼んでくれたレバの塩焼き、口に入れて・・・。そのとたん、私の中に広がっていった柔らかな温かい何か。その間、あなたは何考えていたの?
「ワーッ! て、大きな声で泣けたらいいのに、なぜ?!」
って私は、心の中でさけびながら・・・
でも、ただ黙って、座っていました。

あなたが本のページ閉じたの、ほんとはあの時ではなかった。多分もっとずっと前、それも一度にではなくて。少しずつ、私が知らないうちに閉じていたんでしょうね、これを書いている今、それが見えてきています。
2.ほどけない毛糸玉_a0134863_20565361.gif

# by chigsas | 2009-07-07 20:58